昭和56年1月10日 月次祭
                                     秋山誠治


只今、寒修行が始まっております。普通は、お参りが出来なくても、せめて寒修行にだけでも、または、夏は夏の修行でも、というて、日頃、お参りの出来ない家族の方達も、一緒にお参りをされる。まあ、その一つ月間ございますから寒修行の味が分からない方達は、一辺是非参加されるといいと思うですね。日田の綾部さん所の、いわゆる、あちらの社長さんであります、息子さん、夏期心行とこの寒中修行だけには、必ず、お母さんを自動車に乗せて参って見えます。だから、年の60日間は、お参りがでけとるわけです。今度は、お孫さんも一緒に参って来よります。えー、小学校1年生でしょうか、淳一君と言う。寒修行の始まった日、ここへ、おばあちゃんと親子、孫3人揃って出てまいりまして、淳一さん、自分の事だから、自分で親先生へお届けをなさい。ここへ出て来て、一生懸命、それこそ、やっぱり一生懸命で・・私は、耳が遠いもんですから、聞こえんですから、もう一辺聞きなおしました。そしたら、もう、それこそ目に涙ぐんで言うんですよ。「おしっこがでらんように(感動の笑い)お願いします。」ち、おばあちゃんがね、その、やっぱ、しるしい、自分もしるしい、親もまたしるしい、そいで、今度の寒修行には、どうでも親先生にお願いをして、お取次ぎを頂いて、自分でお取次ぎしなさい。そいで、自分の小遣いを出して来て、それから、自分でお初穂して、その、ま、それこそ、一生懸命のお届けでございました。おかげであくる日から、出らんようにおかげ頂いた。夜中に必ず起きる事、今朝からも、もう、夕べは「私、夜中にビックリしましたち」おばあちゃんが言っておられます。電気を点けて、あの、休んでおられます。おばあちゃんの部屋にお神様がお祭りしてございます。夜中に、その淳一つぁんが、御祈念に来とる。お礼に出て来とる。やっぱ、自分ながら嬉しいね。夜中に起こして頂く、そいで、また、一辺便所に行って休ませてもらう。おかげで寝床を濡らさんですむ。ね、夜中んでも、そのお神様にお礼、有り難い、いわゆる、神様のおかげと実感するんです。ね、そういう、日々の淳一さんの姿を見て、お父さんが、今度は非常に感動しておる。本当にそれが悟りと言うのでしょうかね。というて、おばあちゃんがお話をするように、いわば、今までの、寒修行なら寒修行、夏の修行なら夏の修行にお参り、そりゃー、お母さん孝行で、参って来よったけれども、今度は本気でご自身が、なんか、一つの心に悟りを開いたような、子供に教えられたように、弾んでお参りが出来ておるのでございます。だから、信人はね。そういう、一生懸命なものが、なからなければいけません。ね、おかげを頂くと言うてもね。ただ、あの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃ、あの人は、例えば、世間で正直者だと言うけれども、どうして、あんなに都合の悪い事ばかり、難儀な事が起こるのであろうかと言うような事が、世間ではなんぼうもあろうがと、ね、信心しておかげを受けるのとは、別物じゃと仰る。ね、なんとはなしに言うならば、すんなりとした。あー、素直な信心をなさる方があります。ね、ですから、そういう方が、いよいよ、おかげを頂いてね。神様に向かう一心が立ちますと鬼に金棒、いよいよ、よい信心も、よい信心の、言うならば、お徳も受ける事が出来ます。今日、福岡からお参りをして来る、もう、それこそ、まあ、おかげの受けやすいタイプの方で、め、めったに、ち、月に1回か、2回しか、参って来ませんけれども、おかげを頂きます。まあ、それこそ、すんなりと頂く。て、今度、8日のご理解福引を頂いて、それを今日は持って、アー、意味がわかりたいと言う電話でございました。どう言うようなご理解が、書いてあったかと言うと「富貴自在」と、富に貴い、自在ね。どうでしょうかね。本当にこの字に現れているように、富貴自在のおかげが銘々頂けれたら、これ、人間の幸せ、すぎる事はない。そういうおかげが頂きたい。勿論これは、あー、物とか、金とかと言うものに、不自由しないという事ではなくて、人間の幸せの条件だと思うんです。ね、そういう条件が足ろう、また、一緒お参りをして来ておった方は、何とか、なんとか配剤ち、言うのがあったね。養素じゃったかね。「養素拝山」という。この、福引を・・中々難しい、分からん、養素というのは、養うと書いてある。も、養う素と書いてある。ね、私共が、言うならば、心を養う、心をいよいよ、ま、言うならば、大きくもなりたい、心が豊かにもなりたい、美しくもなりたい、そういう、養素、その養う素は、拝山だというのです。ね、山を拝むとあります。ね山を拝む、これがいうなら、私共の心が、いやが上にも、豊かに大きくなって行く、いや、おかげが頂ける信心なんです。ね、そんなら、心が豊かにさえすれば、より大きくさえすれば、良い、ただ、拝山、いわゆる、山ということは、修行とここではいうから、修行を言うなら、成り行きを尊ぶとか、大切にするとか、ね、難儀な事を拝んで頂くと言う、事なんです。それだけなんですけれども、それを自分のものにスッキリとすると言う所に、信心の修行がいるんです。ね、それがスッキリとすると言う所なんです。分かってはおるけれども、すっきりしない。それでは、おかげにならん。皆が色々ご理解を頂きますから、ね、わかる事は分かっておるけれども、それが、いよいよ自分の事となるとスッキリしない。ね、不思議ですね。修行というのは、それを、ね、いつの間にこう言う心が、自分の心の中にも、育ったであろうか、こう言う時にどうして、自分はあわてんで済むだろうか、こう言う時にどうして腹が立つどころか、返ってお礼をいうような心生まれて来るであろうか、というような、おかげを頂くという事は、やはり、日頃の信心修行による事になるのです。ね、だから、もう、修行なしに信心を頂くと言う事は出来ません。ね、確かにね、お互いが富貴自在のおかげを頂きたい。それには、養素拝山である。ね、起きて来る全ての事柄を、言うならば、「開けてみれば愛」というのを頂とった方が今日あった。もう、一切どう言う事であっても、それは、神様の愛の形であり、神様のおかげを頂かせたい愛の心なのである。ね、または、私の、あー、これは、私の事でしょう。の、うーん、辞書には、難儀という言葉がない。いらないんだと言うようなくじを引いておった方もあった。ね、一切が神愛と分かるのですから、ね、困った事とか、難儀な事があるはずがない。一切、一切が神愛だと、それが分かっただけではなくて、スッキリとそう感じれれるね。その感じれれる修行を日頃させて頂くのです。只今、ね、寒修行、まー、銘打っての特別の修行が行われております。皆さん、出来ないならば、お家ででも、それこそ、工夫をしてでも、寒修行に参加させて頂かれるといいですね。ね、今日もお電話でお届けがあったんですけれども、ある三角関係で、悩んでおられる方のことを、ある人が熱心にここに参られる方が、お取次ぎを頂いておられて、この頃は、それが段々おかげ頂いたかに見えたけれども、昨日、御主人が、いわゆる、まぁ、金の対策の件の事なんかも、あったから、それを綺麗にして、そして、正式に分かれてくれというて、その、言うて見えた。どうと、答えようがない。それで、合楽の先生にお届けをしてくれと言われるのでというて、電話が掛かって来た。それで、私は電話で申しました。けれども、それはもう別れた方がいいよ、いゃー、もう一時辛抱しときなさいよ、というて、わかるような事ではいけんのですよと。ね、例えば、ふんなら、親先生が、あー、そんならそこでハッキリ、も、別れなさいと言われたら、そのスッキリと、その、別れたと、別れると言う事がです。スッキリと頂けると言う事が信心なんです。トランプ占いなんかのように、右か左かという事が、分ったと言うだけではいけない。ね、だから、その方に、ようと言うて下さい。、ね、右と言われても、左と言われても、それをスッキリと頂けれる事の為に、日頃、信心修行、させて貰わなければならない。まぁー、御主人が、あれも、これも清算して、そして、言うなら、相談づくで別れてくれ。そして、此方で子供がないけど、先方に子供さんが出来ているというのですから、そりゃー、もう、別れたがいいでしょうと、言うても、此方に未練があったんでは、自分が苦しい思いをしなければならない。自分が惨めなだけである。ね、だから、そういう時に、例えば、右と言われても、左と言われても、御神意を頂いて、スッキリと自分の心に中に、それが、頂き止められる。ね、為の修行をしとかなければいけませんよと、まぁー申しました事です。それが、なら、合楽に日々通うて、修行しておる人達はどうでしょうか? ね、親先生が、右と仰ったからと、例えば、自分の心の中に、左と思うておっても、スッキリとするでしょうか?。毎日、毎日というが、ここに一生懸命信心の稽古をなさる。修行をなさっておられる方達は、言うならば、私を知るじゃなくて、神様を知る。神様を信じる。ね、親先生の言葉を神の言葉と信じられれる修行が、常日頃出来ておるから、自分もスッキリとした心の状態でおれる。また、そこには、スッキリとした思いもかけないおかげにもなって来るんです。ね、だから、はー、右がよかばい、左がよかばい。と教えて頂くだけならば、合楽でなくてもいい訳である。それこそ、トランプで占のうても、右、左ぐらいの事は出てくるのである。そこを、その時点をね。スッキリと頂けれる事の為に、信心修行せんならんものです。今朝からのご理解の中にも、私、今朝、毎日、日誌が、先生方が、あのー。正奉仕の先生方が、一日、一日の出来事やら、お、一杯書きます。書いて残しております。けど、その中に、この頃、も、目が薄いから見ませんけれども、大きく筆で、簡単な事が、書いてある。中村徹美先生が、昨日、正奉仕であった。その、その、あー、あー、日誌に書いてあります事がです。、ね、親先生の動きを見ておると、そこに神様が活き活きとして現れておられる。ね、それが、冗談のごとのような事のなかんでも、神様の働きが、親先生を通して、そこに、そこに現れたもう。だから、親先生を見ておって、親先生、、いうならば、任せになる。こういう信心を頂いて行ったら、自分も親先生のような、スッキリとした、神様と共に、生きて行けれる信心生活が、出けそうな、感じがするという意味の事を書いてある。どう言う事から、そういう事を昨日は感じたのか知れませんけれども、これは、今、例えば、まぁー、1日の事をずーというても、なんですけれども、私が、いつも4時の御祈念の座に着きます。御祈念、4時になったから、3時からの研修が終わって、4時からの御祈念、電気を消してさがろうかと思うておる所に、ある婦人が参って来た。ね、昨年の暮れに、娘さんの出産の事のお願いを、安産のお陰を頂くようにと言う、初めて、お参りをした方であった。昨日、お礼参拝して来た。おかげで大変安産のおかげを頂いて、今日、東京の方へ帰ります。して又、どうぞよろしゅうと言うお願いであった。1分間、私が早くここを立っておったら、その方は、30分間ここで待たなければならない、おそらく待つ事は出けんだろう。初めて参いって、要領も分からない人ですから、途中で帰ったであろう。ね、1分間、私が遅れたのでその方のお取次ぎをさせて頂いて、お取次ぎさせて頂いておりましたら、神様が決局、私の意思じゃない、神様の意思、神様のお心、初めて参って来た。ようやく2度目に参って来た。お礼参拝してきたけれども、ね、信心とは、こう言うものだと、まぁー、信心も手習いも同じ事というが、と仰るように、手習いをする前には、まず、筆の持ち方やら、墨のすずり方を習うように、姿勢を習うように、ね、丁度、修行生の先生方が、4時の御祈念をいっしょに頂こうとして、ここに、整列しておる所であった。だから、そう言う模様を見たり、聞いたり、はぁー金光様の信心ちゃーあゆうお行儀のいいもんだと、まぁ、言うならば、筆の持ち方ぐらいは覚えて帰したいと言うのが神様のお心であった。その心が、私の方に、私に現れておったと、これは、私がいつも思う事でございます。いつも、ここで、御祈念が30分、4時半に私が下がらせてもらいます。30分ご祈念で下がって、まぁ、下がるのですけれども、昨日は、20分で下がって来た。ね、もう10分ある。ここへ20分後祈念をして下がった途端に電話である。ね、それも、けたたましい事でございましたが、ね、息子さんが倒産して、その里の方の立派なお家だそうですけれども、抵当にしておる。それが、あー、650万で流れる事になる。そこに、ある買い手がついて、1、500万までなら買おうというて買いに来ておるから、今、返事が欲しいというておられるからという、言うなら、けたたましいお電話でのお願いであった。私は、お電話、受話器をとって、その事を祈念しながらこうして聞きますから、そしたら、私のご心眼に大きく「山」という字を頂いた。そして、下に小さく「石」という字をこう頂いた。まぁ、つり合わないけれども、まぁ、合わせれば「岩」と読むでしょう。山を書いて下に石と書く。それで、私も直感した。はぁー「動かざる事、山の如し」というが、この大きな山のような心で、私が不動の信心を持って、お取次ぎしなければいけないなーと思ったから、人間心では、そりゃー、1500万で売れるなら、それで、はよ売ったがよかばいと言いたいですけれども、神様はそんな事じゃない。だいたいは、出来れば、お繰り合わせを頂くならば、取り止めたいのが山々なのですから、もう、そう言うものは、もう、打て会いなさんな、1500万で買いに来とるなら、いーやと言う、もう、まあ断っとけという事でありました。そう言う、例えば、間髪を入れず、、大切なお取次ぎが、私が、もし、ここに30分間、いつものように、御祈念をさせて頂いておったら、ね、どういう事になっておったかも分からない。ね、まぁー、そう言うようなものを、なら、ここで修行しておる先生方は、まあ、いつも、見たり聴いたりしておる。いやー、親先生の中に、もう、神様が入り込んでしもうてござる。先生が、言われる事は神様が言われる事、先生の動きそのものが、神様の働きだ、だから、親先生を見ておりさえすればよい。親先生のまねさえしておりさえすればよいという事が、今日の、その、日誌に書いてある。まぁー、それを感じてからかどうか知らないけれども、そう言う事でした。今日もそうでした。今日も丁度20分、うーん、いつもよりか10分ばかり早く、もう、途端に電話が掛かって来た。ね、そう言う時にです。私は、神様がもう、いつも、こう、助けずにはおかんと言う働きを、私自身感ずるんですけれどもね。今日は、丁度下がらせて頂きましたら、若先生が、あの、手紙を持ってまいりました。末永先生ところから、手紙が、ぶ厚い手紙が2つ、公子先生と夫婦の手紙が着いておった。まぁ、それこそ、もう、親先生、身震いのするような、その記事が、記事と言うか、手紙でございますというて持って来た。読んで貰いましたら、本当に、身震いが出るような感動が起こる、もう、もう、本当に、もう、真に有難いと言うのは、きついとか、寒いとかと言ったようなものが、無くなってしまうような感じですね。心の中が、有り難うなって、感動してくる。それを、読み終わっておるところに、又着ました。これが、又、それこそ、(みらふ)のような、そのおかげの、今、南米では、マットグロッソ、それから、あー、何とか、マイルー、サントアマーロで人がどんどん助かっております。そう言う助かっている模様が、もう、長い長い手紙に一杯、まぁ、あちらに出して置きますから、どうぞ、又、折々、読んで頂きたいと思いますが、今日は、あちらの開教式の事で、マットグロッソ、じゃない、どこんんと、(広前より、アリケーメス、マットグロッソです。)あの、なんか、8ミリを一緒に送って来てますから、お祭りが済んだら、見せて頂こうと思います。時間のある方は観て下さい。もう、本当に、あの、実際に助かっておる。言うなら、活き活きとした御比礼の模様が、まあ、画面に出てくる事と思います。どう言う、例えば、そんなら、私の上に起きておる、合楽で、んなら、正月からこっちに現れておるというおかげというのは、もう、お話にならないほどです。もう、只、有難い事ばっかりの連続なんです。有り難いと言う事と言うてね、只、その助からん病人が助かった。開けん道が開けたという事ばっかりじゃない、中には、お国替えのおかげを頂いたという人もあります。けれども、そのお国替えそのものが、もう、本当におかげと言わずにはおられない。お国替えのおかげを頂いてというおかげなのですね。そう言う、例えば、あのー、目の当たりにおかげを、見たり、感じたりする。それが、日々、お参りをするとか、修行させて頂いておらんと、見る事も、聞く事も、または、修行そのものが、なら、お伺いをした時に、右だ、左だと言われても、先生は右と言われるけれどもというて、「けれども」をつけるような事では、おかげにならん。ね、今日は徹美先生じゃないけれども、親先生の、言うなら、動きそのものが神様の、言うならば、動きだと信じる。ね、そこに、例え、どんな無理な事があっても、それをスッキリとハイと受止めていく事が出来る。ね、一切が神愛と言われりゃー、本当に、一切を神愛として受けて行く事が出来る。いよいよ、言うならば、養素拝山である。いよいよ、山を拝む。難儀な事、困った事を心から、拝ませて頂けれるというか、そのスッキリとした心が、いよいよ、養素となり、いよいよ、豊かに大きくなって行くのである。そこに、なら、大きなおかげの受け物が約束され、おかげも約束される事になるのです。ね、それこそ、富貴自在、おかげを頂きたいのです。誰でもね。ですから、そう言う、んなら、おかげを頂き止める心は、スッキリとした一切を神愛として受けられる心なのです。その一切を神愛と受止めれる。そこには、ね、言うならば修行がいる。順一くんの、それじゃないですけれども、やはり、子供でもね。オシッコが、出るということが恥ずかしい、小さい声で(感動しながら)涙一杯溜めながら言う、一生懸命なんです。赤裸々なんです。ね、お届けというものは、ね、お願いというのは赤裸々でなければいけん。それで、一生懸命、そして、なら、おばあちゃんと一緒に管修行でもお参りをして、しょうとこう決めた。おかげで、その翌日からオシッコが出らん事なった。子供ながらも嬉しい、も、夜中んでも、おばあちゃんの部屋に入って来て、真っ暗中で、御祈念をしておる。ね、そう言う信心が、私は、言うならば、合楽の信心だと思うんです。ね、右だろうか、左だろうかと分かっただけじゃいけません。それを、スッキリと受止めれる心を私は、修行による、又、修行によらなければ、いただけんという事を今日は聞いて頂きましたね。どうぞ。